昭和41年06月14日 夜の御祈念



 信心が分かりたい、おかげが受けたいと、その信心が分かりたい、おかげを受けたいというならこういう信心にならなければ、おかげは受けられんと。ね、繰り返し繰り返し頂いてもそこが出来ない。お取次させて頂いてから、まだそげなん事が分からんか、また失敗したというて、もうまぁいうならもう、あんた知らんというてから、もうそのうてあうごともないごたる時も、ないじゃないですね。
 本当の本人がおかげを受けたいと願おておらんならだけども、おかげを受けたいという思いが切ならですよ、そこをひとつ頂きぬかなければ、おかげ頂けるもんか。しかしそこんところが私は神心となりてとおっしゃるから、本当にいくら言われても、いくらいうても分からんほどにやはり、まぁいうなら愚鈍とでも言おうか、めぐりが深いいや、めぐりが深いと言おうか、そういう人だからこそもう特に、その本当にまたまたもっと噛んで含めるように、そのお届けさせて頂かなければならない。
 これ神心にならなきゃ出来るこっちゃないなと、言う様な事を時々思うです。お互いが一つ本当にあの、こういう信心、例えばこんなこと言うちゃこの、親切一人で助かるとこう仰る。ですから親切がいかに神様が喜んで下さるかと、言う事が分かるんでございますから、親切の反対の不親切であると言う事は、神様は喜んで下さらんと言う事がはっきり分かるでしょう。ね、親切でなかなければです、ね、おかげを受けられないていうだけではなくて今度は反対の不親切になったら、ね。
 おかげが受けられんことが分かる。ですからこれはもうその親切だけのことではございませんけれどもです、ね、ここんところが本当に一つお互いが分からせて頂なきゃいけません。まぁ長瀬さんお参りになってから、先日から長瀬のお導きで参ってきておるかたが、昨日もお参りしてきた。いつも誰かその連れて参ってもらわなければ、参れないという人なんです。ところが昨日はまぁ、(たずまった?)というか、まぁとにかくのっぴきならない事でいっとき一人でも参らなければでけないと言う事で参ってみえた。
 時に丁度参り合わせておった人に色々聞かせて頂いて、したら本当に非常に親切にして頂いたから、嬉しかったというてから、その長瀬さんに話しておられたんですね。本当にあの、その親切がどのくらい、人にこう伝わっていくかと言う事が分かりますよね。ところが反対だったらどうでしょうか。ね、今度たまたま一人で参ったら、参った人に例えば色々尋ねたけれども、もう冷たくあしらわれた。
 本当に参する気持ちもなくなった。ね、人が助かるのと人の心を生かすのと殺すと言う事は、そんなにそれが人事じゃなりません。それはまた波紋に波紋を作っていくのですからね。本当にもう椛目の金光様にお参りさせて頂いたら、お参りさせて頂いた人達もほんに親切だ。信心しとるならやっぱあげんなかなならんと思う。私だん親切がたらじゃったというなことが分かっていくとするなら、もうそれは無言の中に教化して行く事が出来る。お道にしていく事が出来る。
 なら親切にした人その人も有難いのである、嬉しいのである。有り難いなぁ、ね、だからそれ反対のことになったら、なら今度はもう反対のことになっていくちゅう。ね、親切なら神様は喜んで下さるが、な不親切は神様は喜んで下さらんというだけなようばってん、そこからおかげを落とすのですよ。ね、願っておるおかげが受けられんのです。私あのある方が、この方非常にそのなんていうか気が強いですね。それでいつもその近所隣との人間関係で悩み苦しんでおるです。
 私達からいうと、その問題のあると言う事が、既に可笑しいんですけど、問題がないような問題を、やはり向うがこう言うたというたら、それにまた言い返していらなきゃでけん。もうそれこそもう大変気の強い方なんです。でこれで一心に信心させてもらや、また教えも頂いて椛目に御縁を頂いたと言う事が、私共一家の助かりだと言う様にもいうておるんだけれども、この人間関係のことに限ってだけは、その辛抱ができないていうわけなんですよね。ほんで今日も丁度お参りをして参っておりましたが。
 もう本当さっきの話じゃないけれども、もうあんたにはもう今から教えんと。また失敗したのそげなん事で、たったその位の事でと私は思うてもその人にとっては、それこそ血の気が失せる位腹が立つんですから真っ青に成る位。その事もう私達私が聞きよったらいっちょん問題じゃないとと。もうそこんとこおかげ頂いてそこで根が切れそうに思わない事だけれどもこちらがそれにその向かって、そしてそこんところを辛抱しなさい、ちいうたら信心ちゃそげん厳しいもんですか、ちいうてからも言うんですよ、ね、
 先日からもあの、海老のお知らせを頂いたが、ね、窮屈な中にその修行と思うてそれ辛抱させて頂きゃ、おかげが受けられると頂いたが、そげん窮屈な思うをしなきゃならんのですか。信心とはそげん厳しいのですか。というてからもう言われる位にやっぱり、そのその事がやっぱりキツイのですよね。ですがそこんところをやっぱ繰り返し繰り返し私が繰り返し話聞かせる。ほいでもうその神様がそうでもやはり、やっぱ神様ですよね。あのそれでももう本当に懇切に私が言うても分からんから。
 神様がお夢の中ででももう噛んで含めるように教えて下さっておる。続けてあのつくしのお夢を頂いたという。つくしがこう出よる。そういうお夢であった。だから私その方に言うんですよ。つくしとは土の筆と書いてあろうが。信心も手習いも同じこと。その事によって手習いをさして下さるのだ。その事によって稽古させて下さるのだと。あんたじゃ他の事は出来ん。これが一番あんたの手習いになるから、そのその一番かけておるのがその土なんだ。土の様な信心。
 人が何て言うても黙ってその土があ、こう受け抜いていくようにです、ね。どんなに汚いものを大地に巻き散らかしても、不平不足も言わずに、しかもそれを自分の豊穣の土地にして行く様にです、自分の根肥しにして行く様に、そこんところを頂いていかなければいけない。と言う事をです、神様は教えておられるのだから、ここを黙って受けていかないかん。こんなこと言われたっちゃ、黙っておらないかんですか、ちいうて言われる。そうまぁ取り合えず納得したように行くけど。
 また何日かすると又そういうて見えるに違いない。そう言う時に私がです、コンコンとその事を私がその事を話す。噛んで含めるようにいいよりますとですね、そのそこんところにやはり私は神心を使わなければ、人の教導も出来なければおかげ頂かれない。今日はちょうど、3、4人の方がお参りしました。今竹内さんが丁度十時から大祓いを十巻奏上させてもらいよる。そうして小さい声で読んだちゃ聞こえんとです。ほれけん私もひのおらびせなならん、その人もひのおらびせなならん。
 これはもう一生懸命に。もう火花をちらすように一生懸命に言わなごて聞こえん。それけん私も横におった人もそれが聞こえて他の人が耳を傾けて、はぁ今日は私共がおかげを頂きました、というて行かれた。ね、いうなら私の神私が(まるせ   ?)ですたい。もうあんたかまわんと言っとたら、この人も助からんが周囲におとった人も助からんでしょう。神心というのはどこからどこまでもですね、もう沢山助かっていくその物を内容をもっておると言う事ですよ。ね。
 神心というのはいうならば親切と言う事。ね、その私共が親切である事が自他共にしかも沢山の人が助かっていく、気が付かんけど助かっていく内容をもっておると言う事。そういう働きを持っておると言う事。ですからそれとは反対に不親切に今度はなると言う事になったら、それと反対の事になってくる。ね、そしておかげが受けたいおかげが受けたいというても、そこからおかげが受けられないものにしてしまっていかなければならんのです。どうでも一つお互いが親切一つで助かるとこう仰るのですから、ね。
 すとそれと反対に不親切一つであんたも助かる事が出けん。あんたごたる不親切な人はもう助かりきらん。助かられん。と言う事にもなる訳でしょうが。ね、ですからどうでもそこん所をです、なら取って付けた様な親切でもいけませんのですから、やはり自分の心の中に神心にならせて頂く所の精進、努力というものがです、いつの場合でもそれがそのたくまずしてです、ね、ほのらずして親切が使えれる私にならなければならんと言う様な事が感じられますですね。
   どうぞ。